アマヌマビール

キリンビール株式会社最初のラベル(1907年)。ラベルの変遷や「キリン」の隠し文字については、こちらに解説されています。
今回は余談です。なぜかビールの話をします(なぜかは、次号でわかります)。
京都で新選組が活躍し、池田屋事件や蛤御門の変が起き、風雲急を告げていた幕末のお話。1864年に、アメリカから横浜にやってきた男、ウィリアム・コープランド(Copeland, William.)が主役です。
コープランドはノルウェー生まれのさすらいの男で、来日当時は30歳。横浜港に降り立った彼は、横浜牧場の経営にかかわったり、運送業を営んだりし、金銭的にも成功をおさめます。その彼が、来日以来、ずっと不満に思っていたことを解決しようと思いたったのです。
その不満とは、輸入ビールがまずかったことでした。ビール会社のコマーシャルにあるように、ビールは鮮度が命。なのに、長い船旅で、疲れ果てたビールがやってくるのです。
「よしっ、日本でビールを作ろう」
と思いたったコープランド。彼には、過去、ビール醸造所で徒弟として働いた経験がありました。
資金的にめどがたったのは、来日して5年が経過した1869(明治2)年のこと。おいしいビール作りには、おいしい水が不可欠と、かねてより目をつけていた横浜・天沼の土地を買い、翌年に個人経営のビール醸造所、スプリング・バレー・ブルワリー(Spring Valley Brewery)を開設したのです。
スプリング・バレー・ブルワリーが生み出したビール(通称、アマヌマビール)は、またたく間に在日外国人の間で評判となり、ヒットします。長い船旅でヨレヨレになったビールしか飲んでいなかったところに、できたての新鮮なビールが登場したのですから、当然といえば当然。しかし、14年後の1884年には共同経営者との不仲もあり、醸造停止に追い込まれます。
「それは惜しい。うまいビールが飲めないのはまったく残念だ」
と、経営再建に奔走したのが、トーマス.B.グラバーでした。グラバーは三菱財閥の岩崎弥之助らに資金援助を依頼。グラバーの尽力で、1885年にジャパン・ブルワリー社が誕生したのです。
同社はすぐにコープランドの醸造所を買い取り、再建にあたりました。ただ買い取っただけでなく、ドイツから醸造技師を招き、設備も取り寄せて、質の向上も果たします。
1888年に完成した新しいビールの出来は素晴らしく、「なにか、日本らしい名前をつけて世に出したい。ラベルのシンボルとなる動物はないか」と考え、たどりついたのが、空想の動物である「麒麟」(キリン)だったのでした。(F)














